Paul Rudolph(パウルルドルフ)とは Carl ZeissでPlanar,Tessar,KinoPrasmatを発明した天才レンズ設計士
Paul Rudolph(パウル・ルドルフ)とは
Paul Rudolph(パウル・ルドルフ)はドイツの科学者、物理学者、レンズ技師。ルドルフ博士は世界初の無収差レンズAnastigmat(アナスチグマット)(後のProtar(プロター))やフォクトレンダーに受け継がれたUnar(ウナー)、現在でも製造販売されている Planar(プラナー) や Tessar(テッサー) などのレンズ構成を発明したカメラレンズ史に残る偉大な光学設計者である。ルドルフ博士が開発したレンズ構成名を年表にして略歴としてまとめたので掲載する。
Paul Rudolph(パウル・ルドルフ)の略歴
「Paul Rudolph(パウル・ルドルフ)の略歴」
- 1858年11月14日ドイツのカーラで生まれた。Jena(イェナ)大学卒業後は数学教師を志した。
- 1886~1888年、Jena大学の先輩であるエルンスト・アッベの招待でCarl Zeiss(カール・ツァイス)に入社しアッベの助手として活躍した。
- 1890年、Carl Zeissに写真部門が設置され写真部門長に抜擢され、世界初の無収差レンズ「Zeiss Anastigmat」を設計した。アナスチグマットとは「無収差」という意味。アナスチグマットは1900年Protar(プロター)に改名された。
- 1896年、Planar(プラナー)F3.6を設計開発。
- 1899年、Protarを改良し、Unar(ウナー)F4.5を設計開発した。
- 1900年、カメラメーカーの Curt Bentzin(クルト・ベンツィン)と共同でCarl Zeiss Palmosbau(パルモス)を設立した。
- 1902年4月、Ernst Wandersleb(エルンスト・ヴァンデルスレプ)と協力してUnarを改良し、Tessar(テッサー)F6.3を発明。
- 1911年4月1日、カール・ツァイスを退職。退職した理由は、設立したカメラメーカー、カール・ツァイス・パルモスバウが1909年にIka(イカ)に現物出資されてカール・ツァイス・グループから放出されたことに憤慨した為。Geltz(ゲルツ)などの共同事業体が1910年にOptische Anstalt Saalfeld GmbH(オプティッシェ・アンシュタルト・ザールフェルト)というレンズ会社を設立し、中堅以下のレンズ製造を始めたことをルドルフは消極的な経営姿勢と判断して思想のすれ違いがあった可能性について竹田正一郎が指摘している
- 第一次世界大戦でドイツが敗戦して多額の賠償金が課せられたことや経済混乱などの影響で歴史的ハイパーインフレーションが起きて紙幣価値が紙くず同然になり財産を失ったことが原因でHugo Meyer(フーゴ・メイヤー)に再就職した。1918年、Hugo Meyer(後のMeyer Optik Gorlitz)でPlasmat(プラズマート)を設計し、複数の焦点距離のレンズを開発しプラズマートブランドを作り上げた。
- プラズマートの成功により、1922年には映画(シネマ)用レンズ、Kino-Plasmat(キノプラズマート)を設計開発した。
- 1926年、接写(マクロ)用レンズ、Makro-Plasmat(マクロプラズマート)を設計、開発。
- 1931年、Kleinbild-Plasmat(クラインビルド・プラズマート)を設計。カメラメーカー、Plasmat GmbH(プラズマート ゲーエムベーハー)を設立し、カメラ Roland(ローランド)を製造販売する。
- 1933年、Hugo Meyerを退職。
- 1935年3月8日、ドイツ ニュルンベルクにて死去。ルドルフの死後もしばらくローランドカメラの製造は続けられた。
パウル・ルドルフ博士が設計開発したレンズまとめ
- 1890年:世界初の無収差レンズ Anastigmat(後のProtar)
- 1895年:Planar
- 1899年:Unar
- 1902年:Tessar
- 1918年:Plasmat
- 1919年:Doppel Plasmat
- 1922年:Kino-Plasmat(cinelens)
- 1926年:Makro-Plasmat
- 1931年:Kleinbild-Plasmat
参考文献:Wikipedia , アイキャッチ画像転用元:zeissikonveb.de