オスカーバルナック バルナックライカの生みの親 Leitz Leica Oskar Barnack

バルナックライカの生みの親オスカーバルナック Leitz Oskar Barnack

オスカーバルナック バルナックライカの生みの親 Leitz Leica Oskar Barnack

バルナックライカの生みの親オスカーバルナック Leitz Leica Oskar Barnackという人物について解説する。カメラ好きの人なら誰もが聞いたことがあるオスカーバルナックだが、彼の人生についてはあまり知られていない。Leitz社では顕微鏡の設計開発と工場長を兼任していて、ライカに入社する前はCarl Zeissのパルモス事業部で勤務しマイスターまで出世していた。Zeissにいた頃からオスカーバルナックは休日は登山して風景写真を撮るのが趣味のアマチュアカメラマンでもあった。べレク教授と共にチェスも趣味でかなりの腕前だった。

彼は熟練の機械工だったが、カメラの設計図は自分で書けない素人だった。ただし、才能があり優れた発想力と写真の情熱は誰にも負けなかった。彼は元Zeissの職員でバルナックライカの起源はそのツァイスにあった。そう、バルナックライカの源流はZeissが特許を取得したカメラの改良版なのだ。

 

彼の故郷ドイツのブランデンブルク州Lynow(リュノウ)にはオスカーバルナック博物館がある。リュノウは旧プロセイン王国の州の1つ。バルナックは1879年11月1日に生まれ、1936年1月16日に亡くなった。

ウェッツラーにあるバルナックの記念碑

ウェッツラーのオスカーバルナックの記念碑

では、彼の生涯を紹介していく。

オスカーバルナックは1879年(明治12年)11月1日ブランデンブルク州ベルリン南Lynow(リュノウ)で生まれた。現在リュノウには彼の博物館がある。バルナックが生まれて間もなく、一家はベルリン郊外のリヒターフェルデに引っ越す。洗練された美的センスはこの頃磨かれたものだろう。

バルナックは風景画家になりたかったが父親は反対し、金は多少工面するから職人を目指して修業してこいと言う。バルナックが15歳の時に父の紹介で同じリヒターフェルデのランペ親方の元で見習いに入る。ランペ親方はゼンマイ仕掛けの小型プラネタリウムや太陽系の模型を作っていた。

その後、オーストリアの小さい計算機工場で歯車式伝動装置の専門部署などで勤務して6年間程渡り修行をして、その後1902年にCarl Zeissのパルモスバオ事業部へ入社した。パルモス事業部はツァイスのアッベが弟子のルドルフに他メーカーと共同でカメラを作ろうと呼びかけ、ゲルリッツのクルト・ベンツイーン社と共同出資で設立した実質ツァイスの子会社。設立は1900年。

Zeissのガラスを作りZeiss財団を創設したアッベ

アッべ Ernst_Abbe-carlzeissjena

しかし、翌1901年にライプツィヒの銀行破綻に巻き込まれてパルモス事業部は倒産。アッベは従業員丸ごとパルモス事業部をツァイス内に引き取った。そして翌1902年に再度パルモス事業部を設立。

このタイミングでオスカー・バルナックがツァイスに入社した。バルナックは趣味で風景写真を撮っていて、週末になると近隣で山登りをして写真を撮影していた。13×18の大型カメラと機材を背負い(全部で12kg)登山するのは喘息もちの彼にはとてもつらかった。その当時から、なんとかして小型カメラを作りたいと思っていた。

ツァイスはシャッターフィルム給送同調機構を搭載したパルモス6×9というカメラの特許をドイツで申請して1901年に特許の認可を取得している。リヨンのパスカルは1904年に特許取得。

Palmos Roll film Kamera 6×9(https://www.invaluable.com/auction-lot/film-palmos-6-x-9-cm-1901-38a-c-026487fbfb)

Palmos Roll film Kamera

バルナックはライツ転職後にパルモスに似たカメラで特許申請をしているが、却下されている。これはツァイスのパルモスに似ていることが原因だったと思われる。

1910年にバックにZeissがついて巨大合併カメラ企業ICAが誕生。社長はグイドー・メンゲル。1912年には年間5万台ものカメラを生産している。ICAはドレスデンのカメラ製造企業トップ3のうち2社ヒュティッヒとヴュンシェ(合併に参加しなかったエルネマンもトップ3)、フランクフルトのクリューゲナーをツァイスが説得して隠していた子会社パルモス事業部を加えて実現したドイツ最大の巨大合併カメラ企業だ。ドイツはエルネマンとICAの2大カメラ企業の対立となった。

グイド・メンゲル社長(http://www.stereoskopie.com/Stereofotos/Personlichkeiten/Guido_Mengel_Ica-Vorstand/body_guido_mengel_ica-vorstand.html)

Guido Mengel グイド・メンゲル社長

ちなみに、ヒュティッヒは別格の大工場で、1889年にはジョージイーストマンがヒュティッヒ社に表敬訪問している。ヒュティッヒの社長は1905年、会社の資金を使い他の企業に関与したと告訴され有罪判決となり逮捕され、4年間の禁固刑と500マルクの罰金刑に処された。1902年にはヴュンシェの社長が経営難で自殺するなど、当時のドイツのカメラ業界はドス黒い何かが渦巻いていた。

 

少し話を戻す。

1905年、バルナックはツァイスでウアライカの原型となる35㎜用フィルムを使用した小型カメラを発明し、プロトタイプを製作した。シャッター送りとフィルム送りを同調させたロールカメラで、後のウルライカの原型となったと考えられる。そう、ウルライカやバルナックライカが誕生する20年も前、第一次世界大戦前にすでにカメラの原型はできていたのだ。

ica

バルナックは1910年に2か月間ICAに出向し、社長のグイド・メンゲルに会い、自身が発明した有孔の映画フィルムを使って撮影する小型カメラのプロトタイプを売り込むが断られ、戻るとすぐにCarl Zeissを退職し、元Zeissの先輩エミール・メシャウ(Emil Mechau)に誘われヘッセン州ウェッツラーにある中小企業Ernst Leitzに1911年に転職した。この頃のライカは1905年に先程話にできてきたヒュティッヒ(後のICA)にカメラの製造を外注してカメラ業界に参入したばかりでカメラ業界ではまだ新参者だった。

Leitz社に入社した頃のバルナック

オスカーバルナックがLeitzに入社した頃のポートレート写真

バルナックは喘息もちで慢性気管支炎も患っていた為、Zeissでは企業の健康保険組合に加入できなかったが、LeitzはOKしたことも転職の決め手となった。さらにバルナックの為に家を用意して給与もアップした。それまで単身赴任でツァイスに勤務していたバルナックは、家族と一緒に住むことができるようになった。ここで少しメシャウについて解説する。

エミール・メシャウ

バルナックの先輩メシャウ

メシャウはZeissでは天体望遠鏡の設計や海軍で通信手段に使用するサーチライトなどを開発する探照灯部門で勤務していた。その傍ら、新式の映写機の研究開発をしていた。そしてLeitzに転職後は、この映写機の構造を改良する研究をしていた。エルンスト・ライツⅠ世社長はメシャウの研究の為にバーデン州ラシュタットに工場を設立している。

映写機は成長著しい分野で1903年にエルネマンが映写事業を始めて大成功を収めている。1871年にZeissを退職してアスカニア社を設立したカール・バンベルグ(Carl Bamberg)は1912年に映画用カメラの製造を始めて大成功を収めている。ハリウッドでは映画カメラを「アスカニア」と呼んでいたくらい普及していた。

 

話をバルナックに戻す。

バルナックが1910年にICAに出向していた時、試作した小型カメラを提案して断られたが、これについては当時のツァイスの人事担当ショメールス博士が記録に残している。カメラのプロフェッショナルであるICAの社長メンゲルがバルナックの提案を拒否した理由は、18×24サイズでは名刺判に引き伸ばすことができても、粒子が荒れて見れたものではないことを見抜いたからだと思われる。

ica

ポジに反転してスクリーンに投影すると、映画の時と同じで粒子はそれほど目立たないが、印画紙にプリントすると見れたものではない。映画の宣伝に使用するスチル写真も映画の1コマから使用する事はなく、別のスチルカメラで撮影するのはこの理由からだ。

メンゲルはこの弱点を瞬時に見抜いたと思われる。バルナックが18×24の画面にしたのは、カメラのレンズにシネマ用のキノテッサー(Kino Tessar)を使用していた為、イメージサークルが18×24コマしかカバーできなかった。

Kino Tessar(https://fotomutori.com/zeiss-kino-tessar-50mm-f3-5-for-leica-l/)

Kino Tessar

当時の大きいイメージサークルのレンズはf値が暗いものばかりだった。当時は1コマずつに許される露光時間が短いサイレント映画が主流だったが、1秒間に16コマの画像を映していた。ということは、撮影の時も1/16で撮影する必要がある。フィルム感度も低かった。スタジオなら照明でカバーできるが、屋外で採光条件が悪いと、レンズの明るさだけが頼りだった。

つまり、映画版より大きいイメージサークルをカバーする明るいレンズがあれば、この試作カメラの弱点は解決できるものだった。

UrLeica

UrLeica

UrLeicaは1913年に誕生して世界に3台存在する。1914年から第一次世界大戦に突入し、ゲルツやツァイスなどの大企業だけでなく、中小企業のErnst Leitz社にも軍需関係の注文が大量に入った。よって、1918年に世界大戦が終了するまではプロトタイプUrLeicaの開発は中断していたと思われる。

暗室の赤いランプの下で画像の確認をする時に、18×24サイズでは小さすぎて画像のディテールがよく見えない。そこで、バルナックはネガ画面を大きく伸ばしてみることにした。映画用フィルムの幅は決まっているので、縦に伸ばしてみた。縦に2コマ分伸ばすと24×36mmとなり、バルナックはこのサイズを閃き、ほぼ即断即決だった。

バルナックライカは元々長尺フィルムの現像時間の計算道具であり、カメラではなかった。18×24mmの引き伸ばしでは画像が荒れて使えないが、24×36mmにすると、引き伸ばしても充分に見れる写真となり、実用の目途がついた。

ユリウスハウスヘン撮影、オスカーバルナックとⅲ型Leica

オスカーバルナック

Kino Tessarはシネレンズなので18×24mmはぴったりだが、24×36mmでは周辺が足りない。そこでバルナックは、24×36の対角線43.3mmをカバーするイメージサークルの明るいレンズをLeitzのカタログから探したところ、Millar 42mm f4.5とMikro Summar 42mm F4.5と64mm F4.5が候補に挙がって使用していた。ちなみに、現在ライカ博物館に展示されているUrLeicaにはMillar 42mm f4.5が付いている。

 

バルナックはLeitz社レンズ設計の最高顧問マックスべレク教授に新型レンズの設計を頼み、Anastigmat 50mm f3.5が誕生した。これが後のElmax、Elmarである。べレク教授が50mmのレンズを設計した理由を簡単に解説する。人間の眼は一分まで解像するが通常は二分なので余裕を見て二分と考えた。二分の角を挟む扇形の両端の線を延長して当時の映画用フィルムの観光乳剤の結晶の直径1/30mmを弦として抱え込むところで止まる。この止まった場所を中心から測ると50㎜となる。これが当時ライカが50mm(51.6mm)を標準レンズとして設計した根拠である。

Max Berek教授

Max Berek leitz leica

バルナックはべレクに開発してもらったアナスチグマットを自身がつくったプロトタイプの小型カメラに付けて山に出かけて写真を撮った。この試作カメラ2台のうち1台は社長Ernst Leitz二世にプレゼントした。

1914年6月にライツ二世がUSAのニューヨークへ旅行に行った時に現地人にそのカメラを見せたところ、皆一様に驚き感心していたという。1914年6月11日、Barnack Liliput Kamera(バルナック コビト カメラ)という名称で特許申請した。

Ernst LeitzⅡ世社長

エルンストライツ二世

この試作した24×36mm判(ライカ判)カメラのプロトタイプが後にウルライカ(UrLeica)と呼ばれるようになる。24×36mmは映画2コマ分の大きさで現在のカメラの標準アスペクト比率3:2もこれが起源。結果的にバルナックライカは1914年の10年後1924年から製造されて1925年に発売開始した。

ヌルゼーリエのカメラ(Nur Leica)は101番から130番までの30台で製造は顕微鏡工場で工場長はハートシュタインだった。レンズはべレクが設計したアナスチグマットが装着されていた。シャッターは重なり合うセルフキャッピングではなかったので、フィルムを給送する時にはレンズにフタをかぶせていた。このフタには金具が付いていて端っこをボディの金具に留めておいた。

このヌルライカは有名なプロカメラマンやアマチュアカメラマンに貸し出してテストしてもらい、開発担当にフィードバックをしてもらっていた。中小企業だったLeitzだが顕微鏡メーカーとしては世界的に有名だったので、世界各国に代理店があった。その代理店にプロトタイプを送って意見を集め、ウェッツラーのバルナックの元に情報が集まってきた。

オスカーバルナック

この翌年1924年にエルンストライツ二世はカメラの量産を決めてさらに翌年の1925年に50mmレンズが固定装着されたコビトカメラが発売開始された。Leitz時代のバルナック全盛は1925~1934年だった。次第に焦点距離が異なるレンズが開発され、距離計が組み込まれ、セルフタイマーが装備され、現代のカメラシステムの基盤を一歩ずつ構築していった。

しかし、顕微鏡が主力商品でカメラに関してはズブの素人だったLeitz社がカメラ事業に新規参入するという社長の決断は多くの社員から反感をかっていた。この時代、ドイツはハイパーインフレの不況に苦しんで皆必死で働いていた。

 

エルンストライツⅡ世はこの様に述べている。「問題は利益ではない。このカメラに自分が期待するだけのものがあるなら、このカメラの製造で今の不景気の時代でも従業員に仕事を与え、今後の困難を切り抜けていけるということが重要なのだ。私はそう信じている。」

 

1935年からオスカーバルナックは体調が悪化し現場から退き、夢半ば、翌1936年1月に死去した。

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