ルートヴィッヒベルテレはゾナーやビオゴン、エルノスター型レンズを開発した天才レンズ光学設計者
ベルテレの出生と在籍したカメラメーカー
ルートリッヒベルテレ(Ludwig Jakob Bertele)は1900年12月25日生まれで1985年11月16日没。ベルテレはドイツのミュンヘンに設計士の息子として出生し、ドレスデンの工業学校を卒業後、1916年に光学技士(レンズ設計者)としてローデンストックに就職した。その後1919年にエルネマンに転職し、Carl Zeiss Ikon(カールツァイスイコン)、シュタインハイルミュンヘン、ウィルド、A・シャハテなどのカメラレンズメーカーを渡り歩き次々とレンズを開発し特許を取得し続けた天才レンズ技師。
ベルテレが設計したレンズ
ベルテレは、銘玉と言われるSonnarやBiogon、Ernostarなどのレンズを数多く設計、開発した歴史に残る偉大なレンズ設計者である。
エルノスター型の設計と開発
1923年、エルネマン在籍中のベルテレは、同社の光学技師であるA・クルークハルト(A. Klughardt)と共にエルノスター10cm F2とエルノスター12.5cm F1.8を設計開発した。この2つのレンズは当時世界最高速であり、エルマノックスに装着されて夜間の手持ち撮影を可能にした画期的なレンズだった。この頃、ドレスデンに工場を新設し本社を移転した。
続いてベルテレは、1925年に映画撮影機用のエルノスターF1.0(D.R.P.441594)を設計開発した。このレンズはこの後約30年間に渡り世界最高速だった。さらにベルテレは、写真機用に画角40度のエルノスターF2.9を設計した。
エルネマンがツァイスイコンに吸収合併されカールツァイスの技師になる
そして1926年、運命の時がやってくる。エルネマンがツァイス・イコン(Zeiss Icon)に吸収合併され、レンズの製造がカール・ツァイス(Carl Zeiss)に移管された為、ベルテレはカール・ツァイスのレンズ設計者となった。ドレスデンの本社社屋はそのままツァイス・イコンの本社ビルに使用され、その後ペンタコンの本社ビルにも使用され、当ビル「エルネマン・タワー」はカールツァイスを象徴するビルとなった。
エルネマンタワー ・画像転用元,参考文献:Wikipedia
カールツァイスにてゾナーの開発と特許取得
カールツァイスに在籍中だったベルテレは1929年、写真機用に画角40度のエルノスターF1.6を設計開発した。同年8月にはSonnar(ゾナー)F2の特許を取得し、映画撮影機ムビコン8にはゾナー10mm F2が装着された。 さらに1931年には、コンタックス(Contax)用にゾナー5cm F2を設計開発。
カールツァイスにてビオゴンの開発
ベルテレは1934年にコンタックス用にゾナー5cm F1.5とビオゴン(Biogon)F2.4を設計開発した。
シュタインハイル、ツァイスイコン、カールツァイスイエナを掛け持ち
そしてベルテレはZeissとの契約は保持したまま、1942年にシュタインハイルに転職した。この様に多大なる功績を残し続けたベルテレは、第二次世界大戦中にはミュンヘンにあったツァイスの工場とシュタインハイル、ドレスデンにあったツァイス・イコン、そしてイェナに存在したカール・ツァイスと4つの事務所を掛け持ちしていた。
ウィルドにてアビオゴンを開発
ベルテレは1945年にスイスのチューリッヒにあるウィルドに転職し、降伏直前のドイツを出国した。1952年にはウィルド在籍中に航空写真用アヴィオゴン (Aviogon)を設計開発、1954年にはこのアヴィオゴンを原型として、カール・ツァイスにてビオゴンF4.5を設計開発した。
チューリッヒ工科大学から名誉博士号を受ける
そしてベルテレは1956年にウィルドを退職し、ドイツとの国境に近いザンクト・ガレン州ウィルドハウスに移住した。ウィルドを退職した後も1973年まで光学アドバイザーとして研究を続けた。 ベルテレは大学を卒業していないが、1959年に長年の功績が認められ、チューリッヒ工科大学から名誉博士号を受けた。同年には、スーパーアヴィオゴン設計開発し、1963年にはズームレンズの特許を取得した。
ベルテレは歴史に残る偉大なレンズ開発者であり光学レンズ構成の設計者
このようにベルテレなくしてレンズは語れない程、ベルテレは現在のカメラやレンズ業界に多大なる功績と影響を与えた偉大なるレンズ設計士である。